進化?退化?
この前、満員電車に乗っていたとき、ふとあるオジさんのタブレットの画面が目に入った。
ギチギチに詰まった電車内でタブレットを使われたら、見たくなくても見てしまうことはあるだろう。
決して覗きに行ったわけではない。
さて、そのオジさんが何をしていたかと言うと、タブレットで新聞を読んでいたのだ。
新聞を読むというのは、タブレットで単にニュースを読んでいたわけではなく、文字通り画面に新聞紙を映し出して読んでいたということだ。
僕自身は、ニュースを読むときにはほとんどスマホを使う。たまにパソコンで読むこともあるが、紙の新聞を読むことはない。
新聞紙を読もうと思ったら、購読するかコンビニで買って物理的に入手する必要があるからた。
僕にとっては、その行為は面倒な作業であるし、ネット上で読める記事だけで十分なので紙の新聞を買わない。
世の中には紙の新聞で入手しする方が簡単な情報も多少なりともあるだろうから、紙の新聞を読むことを否定するつもりはないがそのうちなくなるだろうと思っている。
逆にネットから電子的にニュースを読めるからこそ、僕の眼の前にいたオジさんはタブレットで新聞を読んでいたのだろうが、わざわざタブレットで読むのに紙の新聞をそのまま表示する必要があるのだろうか?
そもそも、新聞の記事の配列は限られた面積に詰め込むために考えられたものだはないだろうか?
僕が初めて新聞を読もうとしてみたのは、小学校の国語の授業で新聞を読んでみようみたいな課題があったからだったと思う。
そのとき感じたのは、記事がどこからどこにつながるかよく分からなくて読みにくい、だ。
新聞のインターフェイスは読み慣れれば読めるけど、あくまでも紙に印刷するためのもので、読みやすさを最優先にして作ったものではないことは確かだろう。
しかし、上記のおっさんはそのインターフェイスがどうのこうのを無視してタブレットで新聞を読んでいたのだ。
もちろん、おっさんが自ら新聞をスキャンしてデータとして取り込んでいるとは考えにくいので、新聞社がそういうサービスとして提供しているのだろうが、タブレットやスマホで読めるようにするなら、画面に合わせた形で記事を表示させるのが普通ではないかと思う。
もしかしたら、おっさんは新聞のインターフェイスを好んでおり、そういう人がある程度いるから新聞社は紙をそのままデータとして提供しているのかもしれない。
そうだとしたら、これほど滑稽なことはないと思う。
紙に詰め込みやすいように作ったインターフェイスが紙から解放されたのにもかかわらず、人間の方が読みにくさに対応したまま取り残されてしまっていてる。
最新の技術が詰まったタブレットてレガシーの新聞を読むという対比をとって皮肉ったアートのようにさえ思える。
ところで、僕はこの記事を電車に乗りながらスマホで書いている。
電車の扉には何かしらの広告が貼られているものだが、ちょうど電車を乗り換えたとき恐ろしい扉広告を見つけてしまった。
某新聞社が電子端末で新聞を読めるサービスがあると宣伝していたのだ。
しかも通常は月額約2000円かかるが、今登録すると数百円ときている。
新聞社が紙用のインターフェイスを作って、読者が慣れて、紙を使わなくなったのに紙用のインターフェイスでダブレット向けに記事を販売してと、電子化の移行期とはいえこんな奇妙なことがはそうそうないと思う。
逆にいつまで、新聞紙インターフェイスが残り続けるか楽しみだ。