電動化の波は思ったより身近なところに
僕は基本的に自転車で会社に通っている。
雨の日などは別だが、平日の朝晩とだいたい決まった時間に同じ道を通る。
また、おそらく近くにどこかの会社の工場があるようで、東南アジア系の若い外国人をよく見かける。
最近、仕事の都合で今までより遅めに帰ることが多くなってきたのだが、それと同時に近くに住んでいる外国人とすれ違う機会が増えた。
僕と彼らの帰宅のタイミングが合うようになったのだろう。
彼らはほぼ全員が移動手段を自転車としているようで、集団で楽しそうに話しをしながら結構な勢いで道を移動している。
すれ違い始めの頃は、周りが暗くなったあとの時間帯ということもあり、気がつかなかったのだが、彼らが乗っていたのはただの自転車ではなかった。
妙に速いなとは思っていたのだが、なんとほぼ全員が電動自転車にのっていたのだ。
最初は気がつかなかったのだが、電動自転車に乗っている彼らはほとんど自転車を漕がずに移動していることもわかった。
よくよく考えてみれば、電動自転車であれば免許も要らないし給油も必要なく、社会システム上、日本人より不利であろう彼らにとっては最適解と思われる。
外国人が日本で日本の自動車や原付の免許をどのように取得するのかは知らないが、おそらく日本人と同様に自動車学校へ通い、試験を受ける必要があるのではないだろうか。
もしかしたら、身分を証明するために複雑な手続きがあるかも知れない。
そう簡単に払えないお金も必要になるだろう。
また、出稼ぎ労働者として日本に来ていた場合、住んでいる場所が会社の寮である可能性が考えられる。
もし寮の光熱費が会社もちであるなら、電動自転車の充電費、自動車で言うところの燃料費は実質無料となる。
免許が不要で、燃料代が実質かからないとすれば、電動自転車を使わないほうがおかしいだろう。
昨今、自動車業界に電動化の流れが押し寄せているようなニュースをよく見るが、自動車よりも原付が電動自転車に置き換わる事象が先行して起こるのではないだろうかと思う。
医者の道を歩むべき人間に必要なのは何?
ここ最近、東京医大の入試不正問題が世間を賑わせている。
特定の受験生に対して加点したり、女性の受験生には性別を理由に減点していたりしたとのことだ。
この問題は様々なことを教えてくれる。
まず、裏口入学なるものがまかり通っているという点。
大学受験や浪人を経験した身からするとひどく恐ろしい事実だと思う。
大学の合否というのはご存知の通り、テストの点数で決まる(ことになっている。)
テストの点数分布というのは、うまく作られたテストであるほど正規分布、つまりベルカーブを描く。
偏差値50を頂点に左右対称の山を描くグラフのことだ。
点数が高くなるにつれて人数が減っていくし、点数の低くなるにつれても人数が減っていく。
大学入試を作る側からすると、特定の問題だけやたら強い受験生やヤマ張ってきた受験生が沢山入ってこないようにしなければならないため、結果として正規分布に近いグラフを目指すことになる。
逆に質の悪いテスト、簡単過ぎたり難し過ぎたりするテストは頂点が右や左にずれる。
もっと酷いとフタコブラクダのように山が二つあるグラフとなるのだ。
ただ、テストは広い範囲の学習内容に対して数問で学力レベルを問わなければならないので、当たり前だがそう簡単には正規分布に近づかないことに注意しよう。
さて、ここでは受験生全体の結果が正規分布を描いていたとする。
この前提で、もし定員に対して受験生の割合が2倍だとすると、ちょうど真ん中の偏差値50以上の受験生が受かることになる。
ネットで簡単に調べた結果によると、東京医大医学部は171人の合格者に対して約2600人の受験生がいて倍率は約15倍のようだ。
《大学受験パスナビ》
https://passnavi.evidus.com/search_univ/2720/bairitsu.html?nendo=2018
つまり東京医大の場合は上位6〜7パーセントの受験生が受かるのだ。
分布でいうと、右のわずかな部分となると思われる。
僕は工学部出身で、倍率は2.3倍程度だったと記憶している。
2.3倍というと、平均点より少し高ければ受かるレベル、入試の難易度にもよるが、得点率が60パーセントあれば十分受かる程度と思う。
しかし、倍率15倍となると得点率が80〜90パーセントは必要なのではないだろうか。
しかも入試の作り手は正規分布を目指すので、受験生のレベルが高いほど難易度を上げてくる。
有名医大の医学部ともなれば量、質ともにずば抜けたものを要求されてもおかしくないだろう。
(東京医大医学部の受験問題を見たことがないので後で調べてみようと思う。)
東京医大医学部に受かるためには、高難度の入試でトップレベルの成績を修めなければならないことを改めて確認した。
今回の問題である不正入試に戻ってみると、報道では点数を操作して息のかかった受験生を受からせたり、女性受験生を不合格にしていたとのこと。
当たり前だが、受からせたい人が合格ラインにいれば加点の必要はなく、受からせたくない人が合格ラインにいなければ減点の必要はないのだ。
よって、合格レベルの学力がないものを合格させ、合格レベルの学力があるものを不合格させていたということになる。
日本では大学の医学部医学科に入り、国家試験を通り、修行を積むことで医者になれる。
逆に言えば医学部医学科に入らなければ医者になるための資格を得ることができない。
大学受験そのものが医者になるためのゲートの一つに設定されていることになり、高校までの学力レベルが医者になるための素質を試されていると言えると僕は思う。
大学によって難易度に差があったり、地域枠、帰国子女枠や特別入試なんてものがあるからバラツキは存在して仕方ないが、一般入試で学力勝負に出た受験生に対しては学力で医者になれるかどうかを問うていることになる。
東京医大のケースでは学力で医者になるか足るものを審査するはずが、学力とは関係ないところで審査が実施していたのだ。
また、この手の不正が突発的に発生したもの、東京医大だけで行われているものと考えられるだろうか?
感覚的に言えば、習慣的に行われてきたであろうし、他の大学でも行われているだろう。
そうなると、これまで数多くの学力の足りていない人間が医者となって、学力のある人間が医者への道を断たれたことになる。
とても残念な話だ。
僕は感覚的に長期的かつ広域的な問題だと思っているが、このことに何も証拠はないので是非とも国による全国的な調査を期待する。
さて、一方で学力で医者になれるかどうかを判断していいのかという部分に疑問が出てくる。
これまである程度の人間が不正に大学入試を突破して医者になったとする。
そして、その人たちが立派に医者を務めているとするのなら、学力で足切りする意味は思っているほどないことになる。
ある程度の学力があって、他の何かしらの要因があれば医者としてやっていけるのなら足切りの方法を考え直す必要があるのではないだろうか?
例えば、報道では寄付金を期待して不正にいたったとあった。
寄付金を保証できる、つまりお金持ちを大学は入学させたかったのだ。
医者になるために、学力がゲートになっていると先程は書いたが、学力以外にも国家試験や研修医としての修行も医者になるために必要な条件なのだ。
あくまで大学は医学を学ぶ場所であると認識すれば、入学の条件をテストの点数に絞る必要はないだろう。
医学部で医者になるための知識やスキルを身につけていない人間は国家試験で弾かれるべきなのだから。
つまり、そこそこの学力があるなら、多額の寄付を条件に入学を認める制度を正式に設定すれば良いのだ。
不正入試は学力を試す場であったのに、学力以外の部分で合否判定を下していたのが問題だったわけで、最初から寄付金を条件にしておけばルール違反でもなんでもないので全く問題にならない。
今まで、ある程度の人間が裏口入学で医者になっていたことを考えれば、正式に寄付金入学制度を設けても実情との乖離がなくなるだけで医師としての質に何も変化は与えないはずなのだ。
僕の考えをザックリまとめると、以下のとおり。
国は全国的に不正の調査を行なって公表すべき。問題か東京医大だけとは誰も思っていない。
私大医学部には、多額の寄付による入学制度を認めてあげるべき。大学は勉強、研究をする場で、医者になれるかどうかは国家試験で厳しく審査すれば問題ない。
実際のところ、高校までの学力と医者としての実力にどれくらい関係があるのだろう。
この辺も誰か調べてみてほしいと思う。
熱中症で人が死ぬのは知ってるけど知らない
一週間ほど前、7月17日に小学一年生の男の子が熱中症で亡くなったという非常に悲しいニュースが流れた。
報道によれば屋外学習により体調を崩し、熱中症になったとのことである。
ネットでは、屋外学習を引率した教師を非難する声を見かけるのも少なくない。
確かに、教師の立場でもって子供たちを監督していたのだから責任は間違いなくある。
もし自分が亡くなった男の子の保護者ならと想像すると背筋が凍る。
人の死とはそれほど重大なものなのだ。
一方で自分が教師だったら、どうだろうとも思う。
おそらく、教師同士の会議で屋外学習をいつやるか話し合っただろう。
恒例だからとか、教室の中だけでなく外でも学ぶべきだとかの理由により実施を決めたはずだ。
普通に考えたら、引率の教師が独断で屋外学習を決行したはずがないのだ。
やると決まった仕事を突き返すことのできる教師がどれほどいるだろう。
正直、自分が引率をする教師だとしたら、こんな暑い中アホかと思っても、そのまま決定事項に従い屋外学習をやったと思う。
さらに、屋外学習をやっている最中に体調が悪い子が現れたとき、適切な熱中症の対応ができるだろうか。
元気に遊びまわる子供たちを見て誰がヤバい状態にあるか見分けられるだろうか。
全く自信がない。
僕の自信がないからと言って、引率教師の責任が軽くなるわけではないが、この事案に対して死ねだのカスだの罵るのは的外れだと思う。
まず、屋外学習をやっていなかったら屋外学習で誰も死ぬことはなかったのだ。
なぜなら屋外学習をやっていないのだから。
つまり、屋外学習を実施してしまった学校に問題がある。
判断を誤った学校には組織として免れようのない責任が存在する。
しかし、暑い日に屋外学習をやったとしても誰も死なない可能性もある。
今回、男の子は本当に残念だが亡くなってしまったが、もし何かが本の少しだけ違っていたら同じ結果ではなかったかもしれないのだ。
例えば、もう少し風が強かったら? もし何かの拍子で怪我をして脇で休憩していたら? 挙げればきりがない。
そして、その亡くならなかったケースというのが全国で屋外学習をやっている学校にあたる。
全国を探し回ってこの学校だけが暑い中、屋外学習を行なったと考えるのは不自然だ。
他の学校ではたまたま誰も死んでいない、もしくは死んだことが報道されていないため、全国各地で同じ事やもっと酷い事をやっていたとしても何も不思議ではない。
つまり、罪のない子供が死ぬ可能性はそこら中に転がっているのだ。
今回の事案で熱中症で人が死ぬと強く印象づけられた。
教師個人を責めれば、その人は熱中症について勉強するようになったり、教師を辞めたりして同じような犠牲者は減るかもしれないが、それはとても狭い範囲の話となる。
全国のたまたま人が死ななかった屋外学習は多少減るかもしれないが、それまでだろう。
暑さに対して学校が安全になるかもしれないし、ならないかもしれないのだ。
声を上げるのなら、その対象は教育体制そのものや問題になっていない学校も含めなくてはいけない。
今回のニュースが報道されるまでに熱中症は死ぬ可能性があると知っていた人はどれほどいるだろうか。
おそらく大抵の人は知っているはずだ。
熱中症で誰かが死んでしまったという事案は今回が人類最初のケースなわけないし、毎年のように報道されている。
みんな知っているのだ。
しかし、熱中症で人が死ぬ事を止められないのは、熱中症の事を正しく理解していないし、何が熱中症につながるかを知らないからだろう。
屋外学習から出発すると熱中症に考えが及ぶ人もいれば、そうでない人もいるが、熱中症から出発すれば屋外学習は危険極まりないと気づく。
熱中症というものを知ってはいるが、気がつかなければ知らないのと同じと言っていいと思う。
日本全国、いたるところに熱中症を知らない人や組織がある。
今回のニュースを受けてするべきなのは、非難ではなく知らない人に熱中症を教えて上げる事である。
ブランドの価値はどこにあるのだろう
先日、ふと腕時計が欲しいなと思い、ネットで検索をしてみた。
僕は学生の時に買ったG-SHOCKを社会人になってからも使い続けていたのだが、フォーマルな腕時計も持っておいていいだろうと思い探すことにしたのだ。
ネットではショッピングサイト最大手のAmazonや楽天をはじめとし、腕時計販売専門サイトなど様々な店が見つかった。
スマホがあれば場所や時間にとらわれず買い物が出来て、つくづく面白いなと思う。
そして、いろいろ調べる中で、ある疑問が湧いてきた。
ネットではどれくらいまで高い時計が売っているのだろうと。
僕が調べていた中では、機械式の腕時計がだいたい30万円くらいで、見つけた瞬間「高!」と驚いていた。
ネットでうん十万円の取引をする奴がいるのかと思いつつも、もう少し高い時計も扱っているだろうと予想し、さっそく楽天で調べてみた。
そうすると、出てきたのが300万円の腕時計。
もはや僕の領分から大きくはみ出た存在に呆れるとともに、きっと世の中にはこういった高級品をポンと買えてしまう人が沢山いるのだろうなと妙に納得してしまった。
さて、楽天で出てきた300万円の時計というのはフランクミュラーの機械式腕時計だった。
その時計は、腕時計と聞いて思い浮かべるような丸い形をしておらず、長方形や楕円に近かった。
ちなみに機械式時計というのはゼンマイで歯車を回し時間を刻む仕組みになっており、作るためには特別な技術が必要だ。
職人が腕によりをかけて作る代物なわけだから、ある程度高いことには納得ができる。
また、ほかのメーカーだが、中にはストップウォッチ機能や月の満ち欠けを表示できる機械式時計もあり、相当緻密な技術も用いていると予想できる。
様々な技術が散りばめられた製品が高級になるのは納得ができる。
300万円のフランクミュラーに恐れおののいていると、今度はすぐそばに異常な値段の時計があることに気がついた。
なんと、フランクミュラーの時計が3000円で並んでいるではないか。
3000万円ではなく3000円である。
300万円の時計を見た後だと3000円の時計が変に思えるのは、人間の脳みそが弱いものだと思い知らされる。
本当に時計なのかと確かめるために、3000円の時計の項をクリックして中身を見たが、商品はちゃんとした時計のようだった。
スマホやタブレットだと、いかにも本体を売っているように見せかけて、実は画面に貼るフィルターだったりするいやらしい手を使うページがあるが、今回はそういった手口でもない。
一体どういうことかと、注意深く読んでみるとようやく謎が解けた。
この時計、フランクミュラーではなくフランク三浦が売り出していたのだ。
つまり、フランクミュラーっぽい時計を販売する偽物業者である。
間違いなく今年一番のしょーもない出来事だが、ある意味とても面白い出来事だとも思う。
フランク三浦の時計は一見フランクミュラーの時計だが、値段は1000倍異なる。
フランク三浦の時計は機械式ではないので、技術的な価値が低いが、フランク三浦が機械式腕時計を作ってもせいぜい数十万円だろう。
つまり、見た目や機能が同じでも決してフランクミュラーには届かないのだ。
これはなぜか。
当たり前だがフランクミュラーが作っていないからである。
つまりフランクミュラーが作っていると価値が上がるのだ。
よく知れ渡った有名な人や会社が作った物には、機能以上の価値が付く。
この事象は日常生活を送っていて至る所で感じると思う。
好きなスポーツ選手がサインしたボールやユニォームは、ただ売っているのもより価値があるだろうし、スーパーで売っているワインよりも特別な地域で作ったワインの方が抜群に高い。
ワインの例は味が違うから単純な比較はできないが、100倍高いワインは100倍美味しいとは言えないだろう。
作る人や提供元が違うと値段が変わるのは当たり前なのだ。
では、なぜ作る人が違うと値段が変わるのだろうか。
色んな要素を思いつくが、重要そうな点を挙げると、まず信頼性だろう。
フランクミュラー製だから正確に動くし、簡単に壊れたりしないだろうと思い込むため、お金を払ってもいい気分になる。(実際、質が高いのだろう)
また、デザイン性も大事であろう。
フランクミュラーの時計は文字盤の配置や、時計の形がユニークで美しい。
そして、それらを自分で作り上げた努力も忘れてはいけない。
デザインだけで言えばフランク三浦も同じような時計を作っているので、高くてもおかしくないが、ただのパクリ商品なので努力点が死ぬほど低い。
そして、これらの物質的な判断を超えた部分がブランドだと言えるのではないだろうか。
ブランドという見えないものに対価を払える人間という存在はとても面白いなと思う。
頭の良い奴はyoutubeを見ているのではないだろうか
趣味と言うのは何か違う気がするが、僕の好きなことにyoutubeで動画を見ることがある。
ユーチューバーは小学生の間ではヒーローだが、大人には冷ややかな目で見られる存在だと認識している。
僕もつい最近までは、「ユーチューバーとか(笑)」みたいな態度でいたのだが、試しに一つ動画を見たところ、その面白さに驚いた。
今では彼らの創意工夫に尊敬の念すら抱いている。
僕も何か出来ないかと想像したりするが、いいアイデアは思いつかない。
やはり、ユーチューバーすげーわ。
さて、Youtubeでいつも通り面白そうな動画を漁っていたところ、一つ異様なものを見つけた。
ユーチューバーの必須能力の一つに、サムネイル画面で視聴者の興味を持っていくと言うものがあるが、今回見つけたものは僕にとって今までで最強だった。
それは「tan1°は有理数か。」
受験生の時分、受験数学に関しては情熱を燃やした僕にとって「tan1°は有理数か」と言う一文は衝撃的だったし、約10年ぶりに再会したことも衝撃的だった。
このtan1°が有理数かと問う文言は、京都大学の数学の受験問題として出されたもので、一番短い受験問題と言われている。
これは問題の短さとは裏腹に、相当の実力者や運の良い奴出ないと答え方を見つけられない難問である。
シンプルなスタンドほど強いと言う、ジョジョ理論に則ったこの問題は数多くの受験生を数学へと駆り立てただろうと僕は予想している。
というか、僕がその一人なのだ。
そんな印象深い問題がyoutube鑑賞をしていた僕の目の前に現れたのである。
その驚きを察して欲しいところである。
気がつくとすでにその動画をクリックしていて、動画がスタートしたのだが、登場したのは所謂ユーチューバーとは異なるタイプの人種で、居酒屋に行ったら数人はいそうなオッサンだった。
しかし、そのオッサンは件の問題の解法を説明しだしたのである。
その時になり、ようやく僕はオッサンがyoutubeと言う無料プラットフォームを利用して全国の受験生に数学の面白さを届ける救世主であることに気がついた。
まさにヒーローだ。
僕が例の問題に出会ったのは塾の授業だ。
塾に通うために、それなりの月謝を親が払っていただろうし、わざわざ塾まで電車に乗って通っていた。
それがどうだろうか、このオッサンはスマホさえ持っていれば誰でも見ることのできるyoutubeにその問題と解法を発信しているのである。
この事実が意味することは、何なのであろう。
まず、受験生はお金を払う必要なく重要な数学的知識にリーチできるようになっていることが挙げられる。
例の問題は基本的な公式や知識だけで解くことができるが、初見ではまず解けないタイプのものである。
それでいて、明らかに有理数でないものを、有理数でないと証明するための方法を教えてくれる良問。
つまり、理系学部を受験するものであれば一度は触れておがなければならない必須問題なのだ。
これまでは塾に高い金を払ったり、問題集を買わなければまず出会わない問題だったのが、スマホを持っていれば無料で場所を選ばずいつでも知ることができる。
世の中には物理的に塾に通うのが困難であったり、塾に通うためのお金が家計を圧迫する家庭が少なからずあると思われる。
このオッサンはそんな人たちにとって救世主以外の何者であろうか。
今の世の中、大抵の家庭にはスマホやパソコンがある。
スマホやパソコンさえあれば、塾に通うのと同等の環境を作れることをオッサンは証明している。
素晴らしいとしか言いようがない。
オッサンの喋り方からして、明らかに元塾講師だ。
受験業界からすれば、オッサンは自分たちの大事な情報を垂れ流すいけすかない野郎ではないだろうか?
しかし、その分オッサンは受験業界に革命を起こすのではないかと思う。
全国の受験生諸君、いや、高校生、中学生の諸君は今すぐyoutubeを見よう。
そこには新しい発見がたくさんあるはずだ。
高速鉄道が運ぶ無駄なもの
この前、仙台まで行く用事があって東北新幹線に乗った。
席に着くと、前の座席のに取り付けられたポケットが目に入る。
そのポケットにはJRの発行している雑誌があるのだが、これを読む人いるのか、と疑問に思う。
あえて中を開いて確認するようなことをしなかったが、おそらくコンテンツは東北の名所の紹介や名産の宣伝か何かだろうと予想できる。
JR発行の雑誌で、それ以外だったら逆に変であろう。
今の世の中、一人一台はスマホを持っていて、いとも簡単に世界中の旅情報にアクセスできるというのに、新幹線の中で紙媒体で情報を発信して何になるのだろうか。
JRには是非この点を考え直してみて欲しい。
そもそも新幹線に乗っている時点で旅行が開始してるはずなのに、旅行の情報をインプットして意味あるのだろうか。
多くの人は出かける前に目的地のリサーチをして、行程を決めているだろうし、中には自分でお金を払って旅雑誌を買っている人もいるだろう。
旅行雑誌を売っている出版社よりも優れた情報をまとめている自信があれば別だが、車内設置の紙媒体はまるで意味のない存在でしかない。
鉄道会社は乗車料で稼いでいると考えるのが普通だから、きっとこの雑誌は切符代から賄われているのだろう。
トイレットペーパーにもならない不要な紙にお金を払わされていると思うとひどく残念な気持ちになる。
この紙雑誌を廃止すれば、乗車料がわずかでも下がるだろうし、編集作業も必要なくなる。
JRも暇ではないだろうから、余剰人材を別の場所に回せば効率的ではないだろうか。
果たして、新幹線から無駄紙が消える日が来るのか、楽しみである。
朝の電車は地獄のごとく
僕は関東の田舎に住んでいて、会社は自宅の割と近い所にある。
そのおかげで、通勤には電車も自動車も使う必要がなく、特にストレスもない。
もちろん、電車や車で通勤すると必ずしもストレスを感じるのかというと、それは正しくないが、満員電車や渋滞に捕まる可能性が存在しないので、やはりストレスフリーだと思う。
しかしある時から会社の用事で、月に一度くらい都心に移動する必要が出た。
朝の早い時間に電車に乗って新宿付近まで行くのだが、電車で座ることなど不可能だ。
そもそも、僕は田舎のエリアに住んでいるのに、自宅近くの駅でもすでに座席は一杯で、立っている人が何人かいる。
そして主要駅で人がドサっと入ってきて満員電車が完成する。
思うにこの人たちは毎日満員電車で通勤、通学しているのだろう。
僕は月に一度、満員電車の密度を上げてしまっているので若干心苦しいが、それ以上にこの人たちが満員電車から解放されるべきだと思う。
ケータイやスマホの登場により、満員電車だろうが何処だろうが出来ることに幅が広がったが、遠く離れた誰かとコミニュケーションをとったりネットで記事を読んだりするのが満員電車の中である必要はない。
くつろげる自宅や、いい感じのカフェで同じことした方が絶対いいよね。
朝っぱらから押し合い揉み合いしてイライラの渦に巻き込まれるのは、恐ろしくエネルギーの無駄だと思う。
よって、多くの人は住む場所を会社の近くに移すことを考えるべきだと思う。
僕のケースだと都心に移動する際に、乗り換え含めて約60分かかる。つまり往復で約120分。多くの人はより都心に近い主要な駅から乗るので、短く見積もって45分として考えても、出勤日が月に20日なら1ヶ月あたり15時間も満員電車の中で過ごすことになる。
立ってスマホをいじる以外の時間が15時間増えるとしたら、どうだろう、結構嬉しい効果ではなかろうか。
もちろん、住む場所を変えるというのは簡単なことではない。お金もかかるし引っ越す場所を探さないといけない。
学生なら実家の場所に縛られるだろう。
なので、別の提案をしようと思う。
引っ越せないなら、電車を使う頻度を減らす方向で考える。
まず、会社員は有給を取り、学生は学校をサボのだ。
もし全員が月に一度だけ休んで満員電車を回避すれば、月の出勤日が20日とすると19日に減るので、満員電車密度は5%減少する。
焼け石に水程度の数字かもしれないが、ないよりはましであろう。
また、最近はネットやスマホのアプリで勉強できるので、学生は卒業に必要な出席日数だけキープしてちょいちょいサボっても問題ないだろう。
学費を無駄にするのは良くないが、それ以上にレベルの低い教師の授業に出るのは良くない。
ぜひ多くの人が勇気を持って休んで欲しいと思う。